Audio Engineering Deep Dive

LIMITER
完全ガイド

アナログコンプから
マルチバンドリミッターまで。
+おまけ:偶数次倍音の数学的根拠

01
// 基本信号フロー 入力レベル ──→ [検出回路(サイドチェーン)] ──→ ゲイン制御信号 ↓ 入力信号 ─────────────────────────→ [VCA / ゲイン素子] ──→ 出力

方式と特性

方式 素子 特性 代表機
VCA 電圧制御アンプ 精密・高速・透明 SSL G-Bus, dbx 160
Opto 光素子(LED+LDR) 遅い・音楽的・ナチュラル LA-2A
FET トランジスタ 高速・アグレッシブ UA 1176
Tube 真空管 倍音付加・暖色 Fairchild 670

主要パラメータ

Threshold — 圧縮が始まるレベル

Ratio — 圧縮比率。4:1なら入力が4dB上がっても出力は1dBしか上がらない

Attack — 超過後、圧縮が始まるまでの時間

Release — 以下になってから圧縮が終わるまでの時間

Knee — スレッショルド付近の圧縮のなだらかさ

Soft Knee vs Hard Knee

レベル(dB) 出力 ↑ | Hard Knee(急激) | | ・・ Soft Knee(なだらか) | | └──────────→ 入力 スレッショルド
02

コンプとの本質的な違い:
コンプ = 比率(4:1など)で圧縮する
リミッター = ∞:1(超高レシオ)でシーリングを設ける

// アナログリミッターの動作イメージ スレッショルド ──────────────── ← ここより上は通さない(理想) / / / / / /

なぜ完璧なブリックウォールにならないか

① Attackに物理的な遅延がある(サイドチェーン回路の応答時間)

② 素子の非線形性により、完全にゼロにはならない

③ この「わずかな抜け」が逆に音楽的に機能することも多い

代表的なアナログリミッター

Neve 33609

放送・バストラック用。クリーンかつ音楽的なリミッティング。

SSL Bus Compressor

高レシオ設定でリミッターとして機能。バスの「糊付け」に。

Distressor

Brickwall設定で強力なリミッティング。キャラクター強め。

03

Clipping — 波形変化の視覚化

INPUT — 正弦波(原型)

OUTPUT — ハードクリップ後

0dBFS

ハードクリッパー

波形を完全に直角に切断。

1f
3f
5f
7f
9f

高次倍音が多く残る → 耳障り

ソフトクリッパー

波形の角を曲線で丸める。

1f
3f
5f
7f
9f

高次が急速に消える → マイルド

用途

マスタリング True Peakより前のサンプルピーク制御

ドラム整形 アタックを削りつつ音圧を稼ぐ

代表例 Sonnox Oxford Inflator / FabFilter Pro-L2 Clipモード / Kazrog True Iron

04

アナログとの本質的な違い:
デジタルではバッファを使って数ms先の信号を先読みできる
ピークが来る「前」にゲインを下げ始められる = 実質Attack ゼロ。

// ルックアヘッドの時間軸イメージ 時間 →→→→→→→→→→→→→→→→→→→→ ↑ピーク発生 入力信号:────────/\──────────────── 検出: ──────[ピーク予測]─────────────── ↑ここで事前検出 ゲイン: ──────\___/────────────────── ↑ここから先に下げ始める 出力: ────────/─────────────────── ↑ピークが抑えられて出てくる ルックアヘッド時間:通常 1〜10ms(この分だけ全体が遅延する)

インターサンプルピーク(ISP)問題

なぜサンプル間でクリップするのか

// デジタル音声は「点の集合」 サンプル値(離散): 連続波形(実際) : / \ / \ ↑ここが0dBFSを超える! → DAC変換時にクリップ → ストリーミングで歪み

→ これを防ぐのがTrue Peakリミッター。オーバーサンプリングでサンプル間を補間して検出・制御する。

05

① サンプルピーク制御

0dBFS ─────────────────── ←絶対に超えない ↑ ↑ ↑ 制限 制限 制限

サンプル値が閾値を超えないようにゲインを高速制御。

② True Peak リミッター(ISP対応)

// 4x〜8xオーバーサンプリング 通常: ←この間が不明 True:●●●●●●●●● ←全部捉える

EBU R128 規格では True Peak -1dBTP以下が推奨。Spotify・Apple Music対応に必須。

代表的なブリックウォールリミッター

プラグイン特徴
FabFilter Pro-L2複数アルゴリズム選択可、True Peak対応、業界最高峰の透明度
Limiter No6無料・高機能・マルチステージ構成
iZotope Ozone Limiterラーニング機能、IRC複数モード
Waves L2/L3業界標準の老舗、IDR(ノイズシェーピング)搭載
Sonnox Oxford Limiter放送系・透明感重視

アルゴリズム比較

Transparent モード

ゲイン変化を最小限に。倍音歪みゼロ。アンビエント・クラシック系に最適。

低歪み 音楽性重視

Aggressive モード

より大きなゲイン削減を許容。音圧重視。EDM・ポップス系。

高音圧 歪みあり

Dynamic モード

信号の特性に合わせて自動調整。汎用性が高い。

自動調整

Clipping 併用型

ピーク直前でクリッパー、その後ゲイン制御の2段構え。

高音圧 2段構成
06

なぜマルチバンドが必要か ── シングルバンドの問題

// シングルバンドリミッターの弱点 キックヒット → ゲイン↓↓↓ → 全体が沈む ├ 低音↓ ← 正当な制御 ├ 中音↓ ← これが問題 └ 高音↓ ← ポンピング感の原因
// マルチバンドの構造 入力信号 │ ├──[LPF]──→ 低域 → [リミッター①] ──┐ │ │ ├──[BPF]──→ 中域 → [リミッター②] ──┤ → [合算] → 出力 │ │ └──[HPF]──→ 高域 → [リミッター③] ──┘ → 各帯域が独立してゲイン制御されるため、 キックが来ても高音は影響を受けにくい

クロスオーバーフィルターの課題

リニアフェーズ

位相ズレなし。合算時に音変化なし。
デメリット:レイテンシーが大きい。

位相正確 高レイテンシー

ミニマムフェーズ

低レイテンシー。わずかな位相ズレあり。
ライブ・放送系に向く。

低レイテンシー わずかな位相ズレ

関連コンセプトの違い

概念動作
マルチバンドリミッター帯域ごとにシーリングを設ける。各帯域の「上限保護」が主目的
マルチバンドコンプ帯域ごとにレシオで圧縮。ダイナミクス整形が主目的
ダイナミックEQEQとコンプの中間。特定周波数だけ条件付きでEQがかかる
07

// 目的別 使い分けチャート

音楽的なダイナミクス整形 → アナログコンプ(VCA/Opto/FET)
特定帯域だけ制御 → マルチバンドリミッター / ダイナミックEQ
音圧 + 倍音感が欲しい → デジタルクリッパー(ソフトクリップ)
透明にゲインを稼ぎたい → ルックアヘッドリミッター(透明モード)
配信規格の最終保護 → ブリックウォール(True Peak対応)

マスタリングチェーン 推奨例

1

マルチバンドコンプ

帯域バランス・ダイナミクス整形

2

ブロードバンドコンプ

グルー・全体の質感・「糊付け」

3

クリッパー

ピーク削減 + 音圧確保(倍音付加)

4

ブリックウォールリミッター(True Peak)

最終保護 → 出力 -1dBTP以下

アンビエントの場合:
音圧よりダイナミクスと空間感が重要。ブリックウォールは透明モード + ルックアヘッド長め設定が向いていることが多い。クリッパーは不要なことも。

偶数次倍音の
数学的根拠

なぜ「波形の角を丸める ≠ 偶数次倍音」なのか。そしてなぜテープは暖かいのか。

8.1

核心:波形の「対称か非対称か」が倍音の次数を決める。
「丸める」かどうかは、高次倍音の量には影響するが、偶数次か奇数次かには直接関係しない。

対称クリップ(奇数次のみ)

┌──────┐ | | ───┘ └─── ↑ +も-も同じ量削る
1f
2f
3f
4f
5f

偶数次=完全にゼロ(数学的必然)

非対称クリップ(偶数次も出る)

┌──────┐ | | ───┘ ─ ↑ +と-で削り方が違う
1f
2f
3f
4f
5f

偶数次が出るのは「非対称」だから

8.2

任意の関数 f(x) はテイラー展開によって以下のように書ける:

f(x) = a₀ + a₁x + a₂x² + a₃x³ + a₄x⁴ + a₅x⁵ + ... ↑偶数乗 ↑偶数乗 // これは「どんな関数も、べき乗の組み合わせで近似できる」という意味

対称な関数(奇関数)の場合

条件:f(−x) = −f(x)(プラスとマイナスで符号だけ逆)

// f(-x) を展開すると: f(-x) = a₀ - a₁x + a₂x² - a₃x³ + ... // -f(x) を展開すると: -f(x) = -a₀ - a₁x - a₂x² - a₃x³ - ... // f(-x) = -f(x) が成り立つためには各項が一致しないといけない: a₀ = -a₀ → a₀ = 0 a₂ = -a₂ → a₂ = 0 ← 偶数乗の係数はすべて強制的にゼロ! a₄ = -a₄ → a₄ = 0 a₁, a₃, a₅ ... → 自由(ゼロでなくてよい)

結論:対称な関数は数学的に偶数乗の項を「持てない」。
だからハードクリップもソフトクリップも、対称である限り奇数次倍音しか生まない。

非対称な関数の場合

// 制約「f(-x) = -f(x)」がない f(x) = a₀ + a₁x + a₂x² + a₃x³ + a₄x⁴ + ... ↑これがゼロである理由がどこにもない → 偶数乗の係数が「残れる」
8.3

対称な関数

f(+1) = +0.8 f(-1) = -0.8 ← 符号だけ反転 // 大きさは同じ

プラス入力とマイナス入力で出力の「大きさ」が同じ。奇数乗の項だけで表現できる。

非対称な関数

f(+1) = +0.8 f(-1) = -0.7 ← 大きさが違う! // この「ズレ」を表現するには...

この「大きさの違い」を関数で表現するには、符号に依存しない偶数乗の項が必要になる。

偶数乗は x の符号を消す:
x = +1 のとき x² = 1
x = −1 のとき x² = 1 ← 同じ値になる

つまり「非対称のズレ」を補正するには、符号に依存しない偶数乗が必要

8.4

a₂x² という項に sin波を代入すると:

x = sin(ωt) を代入: a₂ × sin²(ωt) // 三角関数の恒等式より: = a₂ × (1/2)(1 - cos(2ωt)) ↑定数項 ↑2ωt = 2倍音(偶数次)! // x² という項の存在が、自動的に2倍音を生成する

「非対称な関数にx²の項がある」
= 「sin波を通すたびに2倍音(オクターブ上)が自動生成される」

8.5

テープ・真空管が「暖かい」のは、物理的に非対称なソフトクリッパーだから。

// テープの磁気ヒステリシス曲線 出力 ↑ | ...(飽和:早い) | | | ───────●────────→ 入力 | | | ..(飽和:遅い) ↑ +と-で曲がり方が違う = 非対称

なぜ非対称になるのか

磁性体の物理的特性(ヒステリシス)により、プラス方向とマイナス方向で磁化の進み方がわずかに異なる。

この「わずかな非対称性」がテイラー展開に偶数乗の項を生み出し、2次倍音(オクターブ上)を発生させる。

2次倍音 = 元の音のちょうど1オクターブ上
→ 音楽的に協和 → 「暖かみ」「太さ」として知覚される

// ── 偶数次倍音 全体まとめ ── 対称なクリップ(ハード/ソフト共通) └─ 数学的に a₂, a₄... = 0 が強制される → 奇数次のみ(3f, 5f, 7f...) ※ソフト vs ハードは「高次の量」の違いであり、次数の種類は変わらない 非対称なクリップ(テープ・チューブ) └─ 物理的非対称性 → a₂, a₄... がゼロでなくてよい → 偶数次も発生(2f, 4f...) → 2f = 1オクターブ上 → 音楽的協和 → 暖かみ 「波形の角を丸める = 偶数次」は厳密には不正確 正確には「テープ・チューブ的な非対称ソフトクリップが偶数次を生む」 → この2つが同時に語られるため混同されがち

DTMでの実践:
サチュレーター系プラグイン(Softube Saturation Knob、Decapitator、Slate VCC など)が暖かいのは、偶数次倍音が出る非対称設計になっているから。「テープ」「チューブ」「暖かさ」という言葉の裏には、この数学的な構造がある。